history

一般財団法人シルクセンター国際貿易観光会館は、平成26年4月に一般財団法人として新たなスタートをきりました。
現在、山下町1番地に立つ会館は、横浜港開港100年記念事業として、国、県、横浜市及び関係業界の協力により、貿易・観光の振興、とくに生糸及び絹製品貿易の振興発展を目的に建設され、以来これまで、地元神奈川、横浜の地域経済や地域発展の一つのシンボル的な拠点として、たゆまぬ事業展開に努めています。


1 会館の創立

昭和30(1955)年、当時の内山岩太郎神奈川県知事は、戦後の荒廃した県土を復興するためには「生糸貿易の振興」に力を入れる必要があると考え、蚕糸業の国際的PRの場としてシルクセンターの設立を提唱しました。この構想には、平沼亮三横浜市長も賛同し、県が中心になって、繊維業界等の関係団体の協力のもとに検討がスタートしました。
折しも横浜港開港100年、シルクセンターの設立はその記念事業として推進されることになりました。
その後、建設準備委員会で構想の具体化が進められ、昭和31(1956)年7月26日には、農林省、通商産業省、神奈川県、横浜市、日本商工会議所、横浜商工会議所、横浜銀行協会をはじめ、日本生糸輸出組合、横浜生糸取引所、日本貿易会、横浜貿易協会、中央蚕糸協会、日本製糸協会、日本絹化繊輸出組合、日本絹人織織物工業会などの関係団体代表により財団法人シルクセンター国際貿易観光会館設立発起人会が開催されました。
こうして、昭和31(1956)年9月3日付けで、農林大臣、通商産業大臣あてに財団法人設立許可申請が提出され、同年10月3日には設立の許可、同月10日には登記を完了し、法人としてスタートしました。


2 会館建設

シルクセンターの会館建設用地は、開港当時、英国系総合商社ジャーディン・マセソン商会があった横浜市中区山下町1番地が選定されました。この用地は、横浜市の所有地であったが、会館の建設費用を主に負担した県と役割分担し、昭和32(1957)年に財団に無償譲渡されたものです。
会館の建設にあたっては、絹の博物館を主体とした建物から、生糸に関する国際的センターに、さらには貿易・観光の中枢機関にと、大きな構想に変化していきました。


会館建設用地の地質は良好なもので、建物は、鉄骨・鉄筋コンクリート造りの地上8階、塔屋3階、地下1階の建坪2,930㎡、建設資金については総額14億円を予定しましたが、その後、建設資金の調達や運営予想の事情から計画の見直しが行われ、シルクセンターと株式会社シルクホテル2者による建築物に変更されました。
昭和32(1957)年には建築設計を協議設計方式で実施し、その結果、坂倉準三氏の設計を採用することになりました。坂倉準三氏は、フランスの高名な建築家ル・コルビュジェの影響をうけた建築家で、神奈川県立近代美術館や神奈川県庁新庁舎などを手掛け、そのモダニズム建築様式の多くの作品は高い評価を受けています。
会館建設は、「神武景気」といわれた好況の中で始まりましたが、すぐさま「なべ底不況」に見舞われ、建設費の調達も困難を極めましたが、鹿島建設株式会社を建設業者として選定し、付帯工事は別の会社に委ね、昭和32(1957)年11月、工事に着手することができました。建設工事は順調に進み、昭和34(1959)年2月28日には全館竣工の運びとなり、3月12日、会館の記念式典が、内外の関係者を集めて開催され、また同月17日には、23カ国101名が出席した国際貿易会議本会議も開催されるなど、目白押しの行事が続きました。


3 シルクセンターの運営

シルクセンターは、創立当初、生糸や絹製品の宣伝・普及・啓発・展示・即売・輸出を促進する事業、生糸と取引場所の提供、生糸・絹製品関係の博物館と図書室の運営管理、生糸・絹製品・貿易・観光に関する諸機関団体などへの事務室提供等を始めました。しかし、実際開館してみると、経済不況の時期と重なって、生糸関係者等が入居をためらい、経営基盤となる部室の賃貸事業は、貸付有効面積の約半分強という苦しい運営となりました。
このため、入居対策として県の出先機関や東日本貿易審議会に参加する常設展示場の設置により、漸く賃貸事業を軌道に乗せることができました。その後、昭和39(1964)年には100%の入館率となり、活況を呈することになりました。
会館の1階から4階には、総合観光案内所、道府県の貿易観光あっせん所、展示即売室、外国公館、外国商社、横浜生糸取引所、日本生糸輸出組合、生糸関係商社のほか貸事務室等が入館、その他に中1階や地下階には貸店舗等がありました。
また、5階以上は、シルクホテルが営業を行い、横浜市内にホテルの少ない時代であったため、多くの人々に利用されましたが、その後、営業不振が続き、厳しくなった防火対策の費用の問題が生じ、昭和57(1982)年に閉鎖されました。


4 入館団体の移り変わり

昭和30(1960)年代後半頃には、横浜市内に事務所を持っていた生糸関係業者の約半数は、シルクセンターと帝蚕ビルで営業をしており、両ビルは、横浜における蚕糸の東西の拠点として、全国の蚕糸経済を動かす拠点にもなっていました。
しかしその後、我が国の生糸輸出状況は、昭和40(1974)年を境に途絶え、生糸輸入国へと転じていき、このことは、シルクセンターの賃貸事業にも大きく影響し、生糸売買・輸出関係者が徐々に退館していくようになりました。
蚕糸・絹業関係では、昭和30(1960)年代以降、横浜生糸取引所をはじめ、日本生糸輸出組合、株式会社筒井商店横浜支社、共栄蚕糸株式会社、岡地株式会社横浜支店、上毛撚糸株式会社横浜出張所などが入館し、以降、平成に入るまで、多くの業界関係団体や会社がシルクセンターを拠点に活動していました。しかし、平成バブルの崩壊によって、国内の蚕糸情勢は急速に悪化し、蚕糸・絹業関係団体の多くは廃業や転業をし、蚕糸業界から姿を消していきました。現在は、石橋生絲株式会社が営業を続けている状況になっています。
貿易関係では、開館当初、中2階に日本貿易振興会、東日本貿易振興会、道府県観光貿易あっせん所、横浜通商事務所などが入館し、昭和37(1962)年には貿易関係29の団体と会社が入館し、シルクセンターの部室貸出面積の50%以上を貿易関係者で占めていました。しかし、隣接の産業貿易センターが建設されると、昭和50(1975)年には、県立展示場や横浜貿易あっせん所が移転しました。
観光関係では、開館当初、観光総合案内所や群馬・栃木県の貿易観光案内所、昭和40(1970)年代には日本航空、全日空、パンアメリカン航空をはじめ、空や海上関係の案内所なども営業していました。その後、昭和50(1975)年代半ばには、航空会社などは退館し、平成3(1991)年に社団法人横浜国際観光協会が退館した後、現在は、公益社団法人神奈川県観光協会が活動を行っています。
公的機関・団体については、開館当初、ブラジル、アルゼンチン、中華民国、キューバなどの外国公館や日本国際連合協会神奈川県支部も入館していましたが、その後、国内の公的機関・団体に入れ替わり、現在は、一般社団法人神奈川県測量設計業協会、一般社団法人神奈川県高圧ガス保安協会、一般社団法人神奈川県消防設備安全協会などのほか、平成19(2007)年からは、神奈川県道路公社などの公的機関・団体が入っています。

最後に、横浜生糸取引所の歴史についてです。横浜における生糸に関係した取引所の歴史は古く、明治27(1884)年、横浜蚕糸外四品取引所が開設されて以降、明治43(1910)年には横浜取引所として、また昭和26(1951)年には横浜生糸取引所に、平成10(1998)年には横浜商品取引所に名称を変更しまして活動を行うなど、横浜の取引所は、大変長い間、生糸の価格を世界に発信し、蚕糸業界をリードしてきました。

戦後、横浜生糸取引所は、横浜生糸検査所の中にありましたが、昭和33(1958)年、まだ建設中のシルクセンターに移って取引を始め、その後平成10(1998)年には、前橋乾繭取引所と合併して横浜商品取引所に改組しました。しかし、経営改善が功を奏さず、平成18(2006)年にはシルクセンターから退館し、東京穀物商品取引所に吸収合併されました。これにより、取引会員の関連会社も退館し、シルクセンターも部室賃貸事業が大きな打撃を受け、厳しい運営状況になりましたが、平成19(2007)年に神奈川県道路公社などの公益事業団体等の誘致に成功し、会館運営の安定化を図ることができました。


5 博物館の開設と運営

■■ シルク博物館設置の経緯 ■■

シルクセンター構想を打ち出した内山県知事が、当初最も重点を置いたことは「絹の博物館」の建設でした。蚕から絹製品に至るまでの豪華な展示を行い、多くの海外の観光客に我が国の絹をPRし生糸輸出を高めようという、観光と生糸貿易の振興、つまり戦後の復興をねらったものでした。そして、この博物館を主体とした計画は、博物館を含めた国際貿易観光会館計画と発展し、財団法人シルクセンター国際貿易観光会館の設立へとつながったのです。
こうした中で、シルク博物館の構想試案作成を神奈川県博物館協会に依頼し、そこで検討された結果、「神奈川県シルクミュージアム構想試案」が県の事務局に提出され、この試案を受けて、神奈川県内の博物館運営責任者、シルクセンター理事団体代表(日本生糸輸出組合、横浜貿易協会)、行政代表(神奈川県社会教育課長、農産課長)による検討が行われ、「博物館設立準備委員会」の設置などが話し合われました。
この博物館設立準備委員会には、東京国立博物館学芸部長ほか、神奈川県立美術館館長、美術評論家土方定一氏、行政側からは内山知事はじめ教育長などが委員として審議を重ねました。その後、博物館の具体的な展示作業を進めるため、専門的な指導にあたる6名の専門委員を選び、また行政関係者や会館の設計者の坂倉準三氏などを交え、博物館の展示調整や相互調整等が進められました。
博物館の展示・収蔵施設等の整備は、会館の2階、3階部分の約1,652㎡について進められ、2階の展示場には、蚕の一生、蚕糸統計パネル、繭改良の変遷、生糸、自動繰糸機や機織機、国内各産地の絹織物などの展示を、3階の展示場では、時代風俗衣装の変遷、シルクロード、芸能衣装、友禅や綴織壁掛け等の展示を行い、服飾の歴史と絹の工芸美を鑑賞できるように整備しました。

■■ 開館当初の外国人環境客誘致と博物館の対応 ■■

戦後、大型外国客船が我が国の海の玄関、横浜港に寄港し、多くの外国人観光客が訪れるようになりました。外国人観光客は、豪華客船でアジアや世界一周の航海を楽しむ者が多く、横浜は、羽田の航空路が盛んになるまで、外国人観光客で賑わい、国際港として使命を果たしてきました。シルクセンターが開館した頃になると、京都、奈良、東京、日光が人気になり、横浜で初めて下船する外国人は半分以下で、横浜の関係者にとっては深刻な問題となっていました。
こうした外国人観光客の誘致問題を解決するため、シルクセンターも横浜港国際観光客接遇協議会等と共催で、大型外国観光客船が寄港する度に、横浜観光とシルクのPRのための歓迎の催しを行いました。しかし、昭和39(1964)年の東京オリンピックの年を前後に、飛行機利用の観光客が増加、さらに新東京国際空港(成田国際空港)が開港し、横浜の観光客は減少するところになりました。

■■ 博物館法のシルク博物館へ ■■

設立から12年を経て、昭和46(1971)年3月18日、シルク博物館は博物館法に基づく「博物館に相当する施設」として指定を受けました。昭和48(1973)年になると、学芸員資格取得者も増えるなど必要条件も整い、その年の10月に、所期の目的であった博物館法に基づく博物館となりました。
その後博物館は、年々、展示資料・作品の収集や展示方法を改善・改修し、開館10周年の記念の年の昭和44(1969)年には、蚕から絹に至る自然科学系の展示を充実させるなど、展示施設の大幅な改装を行いました。また、博物館の館外表示を明確にするため、彫刻家安田周三郎氏の秀作「絹と乙女」像を制作依頼し、博物館海側入り口に設置しました。また、同じ場所に、神奈川県津久井郡津久井町青根の養蚕農家天野勝尾氏宅から寄贈された桑樹が植えられました。
また、平成11年(1999年)3月には、40周年を迎えるのを契機に、来館者のニーズに適した博物館をめざして、施設、展示、運営環境等を中心に検討を行い、大幅なリニューアルを行いました。令和元年には60周年記念事業として空調施設の改修や収蔵作品をホームページ上で閲覧可能にするなど利用者サービスの向上を図りました。

■■ 博物館事業の展開 ■■

博物館は開館以来、常設展示や養蚕実演を行うだけでなく、蚕糸・絹業の振興とシルクの普及・啓蒙を行うために、毎年、特別展や企画展等を計画し実施するとともに、館外で行われる行事などにも協力してきました。数多く開催した展示会の中でも、昭和45(1970)年から始めた公募展「シルク博物館染織作品展」 (現在は「全国染織作品展」)は、絹の需要促進と多くの染織作家を育成する機能を果たしてきました。
また、昭和59(1984)年から始めた企画展「母と子の自然科学教室」は、多くの子供たちに蚕を通じて、自然のしくみ、昆虫の生態や産業との関わりなどを学習する機会を提供し、理科教室や総合的な学習の支援を行ってきました。
その他、シルク博物館は、報道機関や各団体・機関等からの照会、団体等からの講演依頼などを受けており、シルクに関する専門的な情報センター機能としての役割を果たすなど、さまざまな活動を通して、初期の目的の実現に努めています。